韮崎市ふるさと偉人資料館

ふるさとの先人に学び、現在(いま)に活かす

登録日:2020/08/09 18:57:06

企画展「穂坂直光」ミニ解説⑥ 甘利山をよみがえらせた取組み

カテゴリ 歴史   文化   自然  
※この企画展は終了しました
【企画展「穂坂直光」 ミニ解説⑥ 甘利山をよみがえらせた取組み】
 
現在開催中の企画展「甘利山に木を植え 心に緑の大切さを伝えた 穂坂直光」
この場を借りて、展示の概要をご紹介していきたいと思います。
  
 
第6回は「甘利山をよみがえらせた取組み」。
前回は、明治時代に入って乱伐が進んだ甘利山の様子とその背景についてお話ししました。
甘利郷(今の韮崎市旭・龍岡・大草町)の人々は、戦国時代の武田家重臣・甘利昌忠から与えられたと伝わる甘利山を江戸時代を通じて入会地として守ってきました。
しかし、明治時代になって土地や税の制度の変革や生活様式の変化を背景に、甘利山の木や草が無計画に採取されるようになってしまいました。
この状況を憂慮した旧甘利郷の人々は輪伐区域の設定や入山の規制などルールづくりを行いますが、中々成果が上がりませんでした。(なお、明治22年から旭・大草・龍岡の三ヶ村は、より連携して甘利山を管理していけるように一部事務組合を組織していました)
そこで、明治28年に国の許可を得て「甘利山保護条例」という今まで以上に厳格なルールを定めます。ここまでが前回のお話でした。
 
【穂坂直光、立ち上がる】
甘利山保護条例が定められたのと同じ年、穂坂直光が甘利山常設委員に就任し、甘利山を守りよみがえらせる活動を主導するようになりました。
このとき直光は48歳。県会議員や韮崎町長など政治のリーダーを歴任した直光が、中年になってから第二の道へ踏み出したと言えるでしょう。
甘利山常設委員は甘利山保護条例にもとづいて3名選ばれます。村長を補佐して甘利山の山林経営に関する事務を処理し、監視人(山番人)を監督する立場です。植林計画、予算事務、苗圃管理、などいろいろな仕事をします。
直光は大正9年(1920)に72歳で亡くなるまで、26年間にわたり委員をつとめました。
 
 
【甘利山を守り、よみがえらせた取組み】
では、具体的に直光はどのような方法で甘利山をよみがえらせたのでしょうか。
 
1、木の苗を育てる
県に補助金を申請し、木の苗を育てる「苗圃(びょうほ)」を設置。直光みずから管理人となりました。直光が遺した作業ノート(野帳)には、苗木の種類・種をまく数量と坪数・生産される本数の見込み、作業員の名前と勤務日・日当などが細かく記録されています。
 
2、木を植える
直光は26年間で年平均5万本以上の木を植え、その広さは二百町歩(約200ha)に達しました。これは千葉県にある有名テーマパーク全体の約2倍の広さにあたります。
 
3、作業計画を作る
植林・伐採(間伐を含む)・下草刈り・苗の育成などの計画と予算を細かく作成しました。
 
4、自由入山の規制
たき木や炭にする木を切るのは10月から3月、エサや肥料にする草を刈るのは4月から10月、というように時期を定めました。また、入山料の徴収も行いましたが、これはまもなく廃止されました。
 
5、保安林へ編入
明治37年(1904)、甘利山全体を保安林に編入しました。保安林は水を育んだり、土砂崩れを防いだりするために伐採などが制限される森林で、伐採には県知事の許可が必要となります。
 
6、山番人の設置
山林を見まわって違反者を取り締まる山番人(監視人)を2名常駐させました。明治44年の記録を見ると、山番人が違反者(禁止区域内で下草を刈った者8名、盗伐者4名、植林した苗木を伐った者2名)を摘発したことが記されています。
 
7、防火線の設置
山火事の延焼を防ぐための「防火線」という帯状の空白地を計画的につくりました。
 
8、甘利山消防組合
山火事に備えるため村民による消防組織を整備しました。甘利山に近い地区から常備隊・予備隊・後備隊に編成されていました。隊員は18歳以上の青年で、大正元年(1912)の記録によると325人いました。
 
9、学校林の設置
植林などの実習を通して子どもたちが山を大切にする心を育てるよう、甘利山に小学校の学校林を設置しました。
 
 
【村の人々とともに行動】
上に挙げた取り組みの数々は、とうてい直光ひとりで出来るものではありません。直光が主導し、旭・龍岡・大草村の多くの人々と協力して成し遂げたものです。
直光は山を守るために厳しいルールを課したたため、理解のない人から恨まれることもあったと伝えられています。それでも、多くの人が直光と共に行動したのは、彼が信頼を得ていた証だと思われます。
直光の性格は「闊達」と伝えられていますが、これは「心が大きく、小さなことにこだわらない」という意味です。また、直光は60歳をすぎてから若者と一緒に県の林業講習を受講し、植林をするときは甘利山の山頂に寝泊まりして作業にあたりました。
このような人柄や、ルールをつくるだけでなく自ら率先して実行する姿勢が、直光が信頼を得た理由なのではないでしょうか。
 
【後世の人の評価~人の心の中に樹を植えた~】
後世の人は、直光と村の人々の行動を下記のような言葉で讃えました。木を植え育てるという物理的な行いだけでなく、甘利山を守ろうという心を育てたのが何より大事であったということを、的確な言葉で表現しています。
 
「甘利の里では、山に樹を植えると共に人の心の中に樹を植えたのでありまして、
これは全く賢明なことでありました」
(『甘利山共有林の経営について村民各位に告ぐ』昭和27年)