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カテゴリ | 歴史 文化 自然 |
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※この企画展は終了しました
【企画展「穂坂直光」 ミニ解説⑤ 明治時代の甘利山の荒廃】
現在開催中の企画展「甘利山に木を植え 心に緑の大切さを伝えた 穂坂直光」。
この場を借りて、展示の概要をご紹介していきたいと思います。
第5回は「明治時代の甘利山の荒廃」。
江戸時代まで、甘利郷十ヶ村(今の韮崎市旭町・大草町・龍岡町に相当)の人たちが薪などを採る共同利用地(入会地)として大切に守ってきた甘利山。
前回は、隣接する村々との間に巻き起こった甘利山の境界をめぐる激しい争いについてお話ししました。
江戸時代に何度も起こった山争いは、燃料や材木、肥料などの恵みを与えてくれる甘利山が地元の人々にとっていかに重要な場だったかを物語っています。
【甘利山の荒廃のはじまり】
ところが、明治時代に入ると状況が変わります。甘利山の木が乱伐され、至るところで土が露出するような荒れた状態になってしまったのです。なぜでしょうか?
ひとつには、明治時代になると生活様式が変わって材木や燃料が今まで以上に必要になったということが考えられます。また、生糸をつくる製糸工場が山梨県内各地でさかんにつくられて、その燃料として大量の薪が必要だったということも考えられます。
さらに、次項に挙げるような状況も背景としてありました。
【甘利山は誰のもの?官民区分問題】
明治時代になると土地や税の制度が変わり、各地の山が官有地(国の土地)なのか民有地(個人や村の土地)なのかを、国が判断することになりました。甘利郷の人たちにとっては、これまで自分たちの共有地だと思ってきたのに国に取り上げられる可能性が出てきたということになります。さぞ衝撃だったことでしょう。
甘利山は、明治8年(1875)に官民の区分が保留の土地になりましたが、その後、明治14年に旭村・龍岡村・大草村の共有地であることが正式に確定しました。
しかし、区分があいまいな期間が何年もあったことで、人々の心に共同で山を管理利用する気持ちが薄くなり、自分勝手に木を切ったり枝や草を採取する人が相次ぐようになりました。
【止まらない荒廃】
明治14年に甘利山が旭・大草・龍岡の三ヶ村の共有地であることが確定したあとも、荒廃は止まりませんでした。
山の中で炭を焼く作業をするため山火事も相次ぎました。明治22年(1889)には、唯一残っていた広河原(頂上付近)の木々も火事で焼けてしまい、「全山一本を見る能わざる」と言われる状況にまでなってしまいました。
【甘利山保護条例の制定】
荒廃を止める対策として、旭・大草。龍岡の三ヶ村組合は明治16年(1883)から輪伐(*)区域の設定、伐採禁止箇所の設定、炭焼きや木こりの入林禁止などを行いました。
明治21年(1888)には県知事の名のもとに保護取締規約を定めますが、効果は上がりませんでした。
*輪伐 = 森林を区画に分け、区画ごとに毎年順番に樹木を伐採・植樹し、一巡するまでに森林を再生させる方法。
そこで明治28年(1895)、甘利山保護条例を定め、内務・大蔵大臣の認可のもと実施に移しました。保護条例では甘利山を次の3種類に区別し、伐採や芝草の採取を許可する年度や季節などにきびしいルールを設けました。
(1)建築用樹林 (2)薪炭用樹林 (3)まぐさ場
建築用樹木を伐採したときは、跡地に苗木を植えることなども定めました。
この甘利山保護条例が制定されたのと同じ年、穂坂直光さんが甘利山常設委員に就任し、本格的に植林や山を守るルール作りに取り組みはじめます。
*次回は、甘利山を蘇らせるために穂坂直光さんが主導して行った取組みについてお話しします。
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