韮崎市ふるさと偉人資料館

ふるさとの先人に学び、現在(いま)に活かす

登録日:2020/05/04 15:29:07

企画展「穂坂直光」 ミニ解説① どんな人?穂坂直光さん

カテゴリ 歴史   文化   自然  
※企画展「穂坂直光」は終了しました
【企画展「穂坂直光」 みどころ案内① どんな人?穂坂直光さん】
 
休館中でみなさんにお見せできないでいる企画展「甘利山に木を植え 心に緑の大切さを伝えた 穂坂直光」
この場を借りて、展示の概要をご紹介していきたいと思います。
(令和2年(2020)6月2日から展示を再開しました)
 
まず第1回は「どんな人?穂坂直光さん」。
直光さんは明治時代に荒廃した甘利山に木を植え、後世に山の恵みを受け継いでくれた人ですが、どこで生まれ、どんな経歴を歩んだのでしょう。
 
 
韮崎町長を務めていた直光さんが、馬に乗って役場へ出勤する姿を見て、
地元の人たちは「ちょっと見れば ちょっこうさん 長く見れば なおみつさん」と口ずさんだそうです。
 
【大草村に生まれる】
穂坂直光さんは、弘化4年(1847)10月12日、甘利山のふもとに位置する大草村若尾(いまの韮崎市大草町若尾)の飯野五平(五兵衛)の長男として生まれました。
のちに、同じ村の保坂七兵衛の養子となり、名字と名前を改めて「穂坂直光」と名のりました。
若尾区の共同墓地には、飯野家、保坂(穂坂)家の古いお墓が今も立ち並んでいます。
 
写真:保坂(穂坂)家の墓地の一部
 
 
【町や村のリーダー役】
明治5年(1872)に25歳で若尾村戸長(今でいう村長)になったのをはじめとして、山梨県会議員、韮崎町長、大草村長など、52歳まで行政のリーダーをつとめました。
直光さんが韮崎町長や大草村長をつとめていた明治20年代後半から30年代は、今の韮崎市域を何度も水害が襲いました。山の木が減ることは、洪水や土砂崩れにつながります。直光さんは水害を目の当たりにし、山を守ることで災害を防がなくては、と強く感じたのではないかと思われます。
 
【甘利山常設委員になり、森林保護と植林を主導】
明治28年(1895)、直光さんは48歳で甘利山常設委員になり、甘利山の木を守るためのルール作りや植林活動などに本格的に取り組んでいきます。
甘利山常設委員は村長を補佐して甘利山の山林経営に関する事務を処理し、監視人(山番人)の監督や植林計画、予算事務、苗圃管理などいろいろな仕事をします。
直光さんは亡くなるまで26年間委員を続け、生涯で約200ヘクタール(東京ドームの面積約42.5個分)の植林を行いました。
もちろん、彼一人で出来ることではなく、地元の多くの人たちと協力して成し遂げたことです。
 
【直光さんの人柄】
木を守るために自由な入山や伐採を制限したことから、理解の無い人に恨まれることもあったと伝えられています。
それでも毅然として信念をつらぬきました。
直光さんの性格は「闊達(かったつ)」と評されていますが、心が大きく、小さなことにこだわらないという意味です。
60歳をすぎてから若者と一緒に県の林業講習を受講し、植林をするときは甘利山の山頂に寝泊まりして作業にあたりました。
 
ルールをつくるだけでなく、みずから率先して実行したところが直光さんの尊敬すべき点です。
 
*次回は、国学や和歌に優れた直光さんの一面をご紹介します*