県認定:1995年1月27日。
親子だるまの礎となる甲州だるまの歴史は、現在の甲府市城東地域に住んでいた武井八衛門が武田信玄の顔に似せてだるまを作成したことにさかのぼります。1730年代になって5代目八衛門が親子をモチーフとしただるまを考案したことが親子だるまの始まりです。親子だるまは一般的な甲州だるまと異なり白色をしていますが、これは山梨県の農家の生活が、養蚕と綿の出来によって左右されたため、繭の形をイメージして白いだるまになったといわれています。
・甲州水晶貴石細工
・甲州印伝
・甲州手彫印章
・甲州雨畑硯
・甲州大石紬織物
・西島手漉和紙
・甲州武者のぼり・鯉のぼり
・甲州鬼瓦
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戦国武将が乗っていた馬は、ポニーみたいな小さな馬だった・・・甲斐国(山梨)では、古代から良馬の生産が盛んでした。戦国時代に、武田の騎馬軍団が全国的に名をとどろかせたのも、そうした伝統のうえに成り立っていたといわれています。ところで、「戦国武将が乗っていた馬は、ポニーみたいな小さな馬だった・・・」ということをご存知ですか?武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)周辺での発掘調査による当時の馬の全身骨格の出土例をはじめ、県内各地からの発掘情報もそうしたことを裏付けています。映画やテレビなどで見る戦国騎馬軍団は、明治以降に輸入されたサラブレッド系の競走馬によって勇壮なシーンが再現されています。ちょっとオーバーな表現ですが、当時の馬では体格のいい人が乗ると時に足が地面に付いてしまいそうな・・・と聞くと、けっこう意外...
勝沼信友(かつぬま のぶとも)?〜1535信玄の父・信虎の弟で、勝沼に館を構えて、武田親族衆のなかの有力者として、県の東部地域の掌握を任されていたようです。天文4年(1535)に相模勢との抗争の中で、戦死しています。甲州市勝沼町の国史跡「勝沼氏館跡」は、その勢力のさまを今に伝えています。...
武田信廉(たけだ のぶかど)1532〜1582天文元年(1532)、信虎と大井夫人との間に3男として生まれ、信玄の弟となります。画才に優れた文化人で、逍遙軒(しょうようけん)とも号しました。父・信虎や母・大井氏の肖像のほか、多くの作品が信廉の手になったといわれています。...
武田勝頼(たけだ かつより)1546〜1582信玄と諏訪御料人との間に生まれた男子で、信玄の亡き後、家督をつぎ武田家最後の当主となります。拡大した領国を維持するのに努めますが、家臣団の弱体化などもあり、最後は、織田信長と徳川家康の連合軍に攻め込まれ、天正10年(1582)3月、甲州市大和町田野で、一族ともに最期を遂げます。...
武田義信(たけだ よしのぶ)1538〜1567信玄と三条夫人との間に生まれた長男で、将来を嘱望され、13歳で元服の際には時の将軍から「義」の字をいただき、15歳で、駿河の今川家との関係を深めるため義元の娘を迎え妻としています。しかし、やがて信玄との間が気まずくなり、東光寺に幽閉の後、永禄10年(1567)、30歳の短い生涯を閉じています。...
三条夫人(さんじょう ふじん)1521〜1570京都の貴族三条家の出身で、天文5年(1536)に信玄の正室として迎えられ、3男2女の母となりました。義信の廃嫡、二男信親(龍宝)の失明、三男信之の早世、長女黄梅院の北条氏との政略結婚の破綻と病死など、子どもたちはみな幸せ薄く、元亀元年(1570)に50歳の波乱にとんだ生涯を終えています。...
大井夫人(おおい ふじん)1497〜1552信玄の母で、大井の地(南アルプス市)に拠って、信虎と敵対していた大井信達の娘に当たり、信虎の甲斐国内統一を進める過程で、政略的な意味を持って嫁ぎました。戦国の雄・信玄、副将として武勇をはせた信繁、文化人としての性格をそなえた信廉と、三人の名将を育て上げ、戦国武田の産みの親ともいえます。...